ジャガイモの皮をむきながら、頭痛について考えてみる。
目を開けているのもやっとというような。自分の世界が、入り込めないほどに狭まってゆくような。
誰かに締め上げられているような気がして、しかし、そこには誰の腕もない。
しなびたジャガイモの肉に食い込んだ黒い芽に包丁をたてながら、ぼくは考えている。
子どもの頃に近所で飼われていた犬は、病気になったときジャガイモの芽を食べて一命をとりとめたらしい。
赤い血液の中を廻る黒いすてきなソラニンが、すでに体に巣食っている別の黒い何かを食いつくす。そしてそのあと体内に根を張るのだ。奇妙に柔らかいジャガイモの白い肉を、ぎりりと絡めとったのと同じやり方で。
つまり、そういうことだ。
防腐剤の入っていないジャムにはカビが生えてしまう。
防腐剤の入ったジャムを食べると、それはお腹の底にたまる。白い粉になってずんずん積もり、胸までせりあがって来たらからだはどうなるのだろう、と考える。
白い粉で埋めつくされた、ぼくのお腹。しかし構わない、ぼくは構わない、どっちみちぼくにそれを見ることはできないのだから。
カビの生えたジャムを見たりなんかしたら、きっとぼくは泣いてしまうのだろう。
甘い果実は、化け物になり、ぼくがびんのふたを開けるのをじっと待っている。息をひそめて、何でもないような顔をして。
そして開けた途端に、牙をむく。甘い予感を裏切り、舞い上がる埃のように、カビは、白く、ぼくの鼻腔に入り込もうとする。
ばかなぼくは、それを吸い込んでしまうのだろう。愚かしい呼吸。ぼくはもう息などしたくない。
しかしあの犬は死んでしまった、ぼくの近所の犬、ジャガイモの芽を食べたあの犬は。
犬が死んだ時、犬のからだの中のソラニンも一緒に死んでしまったのだろうか。
わからないな、わからない。ぼくにはそういったことは少しもわからない。だってぼくは頭が痛い。
「手が止まってるよ」
背後で声がして、ぼくは思わず「え、」と振り返る。
「さっきから、手が止まってる」
エドはもう一度はっきりと言うと、寄りかかっていた壁から頭を起こし、満面の笑みを浮かべてこちらを見る。
狭いキッチンの壁に背中は押しつけたまま、背の低いぼくを見下ろすように、頭だけがくんとたらして、まるではりつけにあっているみたいだ、とぼくは思う。ジャガイモのにおいが鼻をかすめる。
「考えていたんだよ」
「何を」
「ぼくがジャガイモからジャガイモのにおいを嗅ぐとき、周りの空気は果たしてジャガイモのにおいになっているのか、ということをね。そうだとしたら、ぼくたちは空気を汚していることになってしまうから」
ぼくの口から出まかせに、エドはふん、と息だけで笑う。
「トムはいつもそうだな。人を呼びつけておいて、自分勝手に考え事ばかりする」
「ぼくの料理の手際にそんなに文句があるなら、にやにや笑って突っ立ってないで自分も手伝ってくれないかな」
「ごちそうしてあげるって言ったくせに、結局おれに作らせるんだ?」
そう言ってエドはいとも簡単にはりつけから逃れ、ぼくの肩に手をかける。
「そう、だってぼくは頭が痛いから」
ため息をついて、包丁を置く。エドの腕はぞうっ、肩をなでている。
背骨に軽い悪寒を覚え、目を閉じる。
頭の中には、古くなったジャム。真っ白でふかふかのカビは、どうしようもなくぼくの鼻腔に上がって来ようとする。
蛍光灯の光で白々しい瞼の裏が、ふいに冷たくなる。
「かわいそうなトム、」
頭の上でエドの声が言う。ぼくの髪の毛をあたたかくする、ぼくの名前。愚かしい呼吸。
鼻腔から吸い上げてもお腹の底にため込んでもどっちみち真っ白になるなら、いっそのこと、ソラニンにやっつけてもらえばいい。
すてきなソラニン。からだを廻る猛毒。ぼくのからだの肉を絡め取る、しなびたジャガイモと同じように。
そしてぼくが死んだら、からだの中のソラニンも、一緒に死んでしまうのだろうか。
「かわいそうなトム、」
エドはもう一度言い、ぼくは薄目を開ける。
青白い光を映す包丁を再び手に取りながら、狭くなっている、と考える。入り込めないほどに狭まってゆく、と。
狭くなっていくぼくの世界は、そのうち、ジャムも、ジャガイモも、近所の犬も、エドのことも、きっと締め出してしまうのだろう。
だけどもそれはぼくが悪いんじゃない。ぼくは悪くない。何も。だってぼくは頭が痛い。
力のない指で、包丁を握りなおす。エドが身をかがめたのがわかる。耳のすぐ後ろで、息遣いが聞こえる。また何か言おうと、唇を開く音。しかしもう何も聞きたくない、ぼくはもう息だってしたくない。
だからぼくは、ジャガイモの皮をむきながら、頭痛について考えている。
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これはまったくひどい話。まことに申し訳ありませんでした。 申し訳ない以外に言葉がないです。