2.

 

れから一週間たったある晩、部屋にこもってぼんやりしていると、ドアにノックの音があった。
無視しようとしたが、ノックはどんどん大きくなる。最後には、拳でドアを殴りつけるような調子になった。エイミーはまだ帰っていない。仕方なくドアを開ける。
薄ら寒い夕闇の中に、へつらうような笑みを浮かべたピートが立っていた。
 
「やあやあ、」とあいつは俺に挨拶した。重そうなボロい鞄を提げている。「留守なのかと思ったよ」
 
「エイミーなら、留守だよ」
 
俺が親切に教えてやると、いやに素直に、うん、と頷いて、相変わらずポーチに突っ立っている。エイミーに用があるわけではないことは何となくわかったから、ドアを大きく開いて、中に入れてやった。
 
ボロい鞄の中には、本がぎっしりと詰まっていた。大学生なのだった。9月に入学したばかりで、英文学を専攻しているという。
 
「文学の素晴らしいところは、露悪的なものの中にこそ真の美しさが紛れこんでいるかも知れないことを、ぼくたちみんなに気付かせてくれるってことなんだよね!まあ、その可能性については前からずっと考えてきたわけだけどさ。実際、オスカー・ワイルドは・・・」
 
けれど、そんな話は全く理解できなかったし、本当のところ少し退屈でもあったから、俺はピートの言葉を遮った。
 
「それはわかったけど、ピート、一体何の用があってここへ来たんだ?」
 
ピートはぴたりと話し止め、真っ直ぐに俺の方を見た。自分以外の人間の存在を初めて認識したというふうに、黒い目が大きく見開かれる。
それから一気に、値踏みするような目つきになった。何だか面食らってしまった。
 
「なに?」と尋ねると、当惑の色が浮かぶ俺の顔をなおも見つめながら、ピートはまた急に笑顔になる。明るい口調で、「そこなんだよねえ!」と言った。
 
一体何の用事があったのか、あいつは自分でもさっぱりわかっていなかった。神妙に話しているけれど、説明は全く要領を得ない。
 
「大学の講義が終わって、空が青いなあ、と思いながら歩いてると、突然、何もかもがはっきり見えるようになったんだ。自分の運命やなんかが大きく変化しつつあるってことがわかったし、途中止めにしている物事を、全部最後までやりとげなければいけないってこともわかった。神の啓示を受ける、って、こういうことなんだねえ」
 
天啓を受けたピートは、新鮮な空気を吸い、複雑な思考を整理するため、そのまま歩き続けた。新しい人生についての決意が固まったところで、全く偶然にも、このフラットに辿り着いたのだという。
 
「だから、ぼくはカールにギターを教えてもらわなくちゃならない」
 
突拍子もないことを言う。神の啓示のくだりはばかげているし、それとギターについての結論が、どうつながるのかもわからない。
笑っても良かったのだけれど、俺は笑わなかった。そうさせない何かが、ピートの目つきにはあった。
 
「バンドを解散したばかりだってことは知ってるよ、姉さんから聞いたから。でも、だからって、ギターを弾かなくなるのはおかしい、うん、ほんとにばかげてるよ。前にライブを見たことがあるんだけどさ、カールのギターは最高だったし、それって嘘じゃないんだよ!」
 
ピートがどういう気持ちでそう言ったのか、俺にはわからなかった。
真摯な言葉に聞こえたけれど、ひょっとしたら自分の利害を計算し尽くしたうえでの、単なるおべっかだったのかも知れない。
 
俺はピートを眺めた。ボロい鞄を膝に抱えたまま、何かにとりつかれたように熱心にしゃべる、一才年下のおかしなやつ。
大きな黒い瞳には、閃くような光が宿っている。
 
その瞬間に、エイミーの弟、というばかりではない、ひとりの人間としてのこの男の姿が、俺の中で初めて明確に実を結び、奇妙な実感を持って胸に迫って来た。
ピートというやつは、自分ではどうしようもないほどに純粋な理想を抱いているが故に、どうしようもなく悩みを抱え込んで、ぼろぼろになろうとしているのだった。
何だかいたたまれない気持ちになった。ぱっくりと開いた他人の傷を、目の前で見せつけられている気分だった。
けれどそれは、自分自身の傷でもある。俺があいつに「いいよ、」と言ったのはそれがわかっていたからで、それほどまでに、あいつは俺の心にすっぽりと入り込んで来ていた。
 
「ギターを教えてやるよ。アドバイスできることはそんなにないと思うけど」
 
「ほんとに?」
 
ピートは目を輝かせて、急に椅子から立ちあがった。ばさばさと音を立てて、素晴らしい文学作品が床に落ちる。
ピートは気にしていなかった。駆け寄って、首を締めるみたいにぐっと抱きついてくる。
 
「そう言ってくれると思ったよ!だって、うん、ぼくたちは魂の底から正直にならないといけないし、理想郷を目指すっていうのは、そういうことだからね!」
 
相変わらず意味はよくわからなかったが、構わなかった。何らかの理由があって、ピートはわけのわからないことを言い続けるしかないのだ、と理解した。
頭にかかる息のあたたかさに、背骨が溶けてしまいそうだ。離せよ、と言おうとした瞬間、体の熱がすっと引いた。
 
「うん、じゃあね!」
 
何事もなかったかのようにピートは言うと、鞄に本を詰め直し、さっさと帰って行った。
俺はしばらく突っ立っていた。頭が回らなかった。
 
理想郷を目指すだなんて、全くばかばかしい考えだったし、ピートが正直どころか、とんでもない嘘つきであることは少し後になってはっきりするのだけれど、それがなんだろう?
おもしろいことになりそうな予感がしていた。理由はわからないけれど、その予感を信じたかった。
 
 

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文体が戻らないなあ。時間が経ちすぎたんですね。ぐちゃぐちゃと長い話になってすみません。