地面に座って、床ばかり見ている。
ワックスのはげた木目の床は、荒涼とした砂漠のようにどこまでも続き、終わりが見えない。終わりは見えないが、足ばかりが見える。
おかしいな、床を見ているはずなのに、さっきからずっと人の足ばかり見ている、ぼんやりした頭で、ピートは思う。
おかげで、足を見ただけで、向こうからやって来るのが誰なのかわかるようになってしまった。そんな振りをする。
日曜日だった。いや、もしかしたら月曜日かも知れない、どちらでも同じことだ。
どのみち空気は重く垂れこめ、フラットには人があふれる。
いつの間にこのフラットは、ホームレス収容施設になってしまったのだろう、と考えて、ピートは苦く笑う。
その人たちの大半は自分が連れてきたのだということは、都合良く忘れている。
擦り切れたジャンバーの男が、灰色のスーツの小男に歩み寄る。
男のまとっている空気が一瞬だけ広がって、鼻腔が冷たくなるのを感じる。冬のにおいだ。
…まったく、なんという陳腐な表現。冬のにおいだ、なんて。我ながらがっかりだ。
張り詰めた外気の冷たさが、暖かい部屋に少しだけ溶けて、ゆるく辺りを漂うこの独特のにおいを表現する言葉が、他にひとつも見つからないなんて。
しわがれた男の声がする。甲高い女の声が、それに混じる。
キャンディ、また頼むよ。
わたしもお願い、この前のは、ほんとに最高だったわ。うそじゃない、ほんとに最高だったのよ。
キャンディの声は聞こえない。彼にはしゃべる必要などない。話を聞くつもりだってない。最高だろうがそうでなかろうが、金を払ってくれればそれでいいのだ。
紙がこすれる音がして、キャンディは包みを渡し、男と女は出ていく。
出ていくが、きっとまた帰ってくる。夢の中を漂うような足取りを眺めて、ピートは思う。
どこにでも自由に羽ばたいて行ける渡り鳥のような振りをしながら、実際はむやみに長い足首の鎖を、ぞろぞろと引きずって歩きまわっているだけなのだ。
「ほんとに最高」だなんて、ばかばかしい。
他人とは違う世界を見ているつもりでいても、現実は誰にとっても現実だ。
夢から醒めると、からだが震え、どうすることもできずにベッドに横たわり、やたらに冷や汗をかきながら、所在の判然としない天井を見つめる。そして、もう二度と使うまいと思う。しかしまたぞろここへやって来る。その繰り返しだ。
考えているうちに、頭に血が上る。憎悪で胃がよじれて、何もかもがむちゃくちゃになっていくような気がする。
フラットに出入りする連中を見るのが、ピートは嫌いだった。自分自身の浅ましさを、わかりやすく鼻の先にぶら下げられたような気分になるのだ。
小さく息をついた瞬間、こちらにまっすぐ歩いてくる男が目に入る。場違いな足音に、少しひるんだ。唇をかんで、黙ったまま視線を上げる。相手はすぐに話し出した。
「何やってんだよ、ピート」
予想通りの強い語気に、何だか少しだけ晴れやかになる。条件反射のように浮かんできた薄い笑いを殺そうともせず、ピートは「うん」と答えにならない答えを返した。
「うん、て何なんだよ、ギグをすっぽかしといて・・・一体何回やったら気が済むんだ」
「ごめん」
「・・・何だか騒がしいな」
「友達を呼んだんだよ。ぼくにも友達を持つ権利はあるからね。カールだって友達がいるんだから、同じことだ」
「ピート、一体何の話だよ」
わざとらしいくらいにはっきりしたため息と共に、わざとらしいくらいに当然の疑問をカールは投げてよこす。
何の話かなんて、ピートにはわからなかった。自分にわかることなど、ひとつもない気がしていた。
「カールには友達が多くていいな、って話だよ。ぼくなんかとは大違いだ」
返事はしばらくない。重い沈黙ばかりが耳に届く。ようやく、カールが口を開いた。
「・・・お前、バンドに戻る気ないだろ」
「そんなことないよ、」
「じゃあ、なんで薬をやめないんだよ」
頭の血がさっと引き、胃はよじれ、からだの何もかもがむちゃくちゃになって、それなのに、口元に浮かんだ笑いを、ピートは消すことができなかった。
それがカールの気に入らないことくらい、充分わかっていたけれど。
「本当に戻る気があるなら、やめる努力くらいできるはずだろ」
言葉が痛かった。すべてが痛かった。世界が、牙をむいて自分に踊りかかってくるような気がした。
「薬さえやめたらバンドに戻れるのに、」
わかってる、わかってる、そんなことわかっているよ、カール。わかってる。
だけど。
それが人生だと思っていた。震えを抑え、冷や汗をかき、天井を眺め、誓いを立ててはあっさりと破り、疲労感ばかりが蓄積される、この無益な繰り返しこそが。
それが生きるということだと思っていた。
おかげでずっと人の足を眺めて、今では鼻腔に冷たい外気を何と言ったらいいのかもわからないし、自分が何を話しているのかもわからない。
「それでもやめないのは、戻る気がない証拠だ」
ピートは目を閉じた。おかしくなりそうだった。
カールが遠ざかって行くのが、足音でわかる。咄嗟に呼びとめようとしたが、声が出なかった。
吸い込んだ空気が鼻の奥で冷えて、空っぽだ、とピートは思う。
カールがいないこのフラットは、なんて空っぽなんだろう。
体の芯が急に冷えて、身震いする。けれど、寒気を止める方法なら、よく知っている。
ピートはポケットをまさぐり、くたびれたお札を探り当てた。人々は、夢見心地のステップを踏む。キャンディはこちらを振り返る。
あまりにもずっと空っぽだったから、空間を埋めることばかりが上手くなってしまった。
床の上に座って、ピートはそんな振りをする。
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酷すぎる。ボツにしたのを引っぱり出してきたらやっぱり酷かった。 皆さま、どうもすみませんでした。