結局、その日は雨は降らなかった。
垂れこめた雲は、どんよりと生温かい空気を地表に押しとどめるばかりだ。
時計を見る。午後11時。
今日も雨は降らないままになりそうだ、などとぼんやり考えたところで、ピートははたと足を止めた。
傘。
まだカールに傘を返していない。
時間はすっかりわかっていたけれど、確かめるようにもう一度時計を見た。
日付はまだ変わらない。これから返しに行けば、まだ間に合うはずだ。
必死に走ってたどり着いたカールの家の玄関で、呼び鈴を何度鳴らしても返事はなかった。
少し乱暴に、ドアをノックする。やはり応答はない。
留守なのかな、とピートは呟いて、裏窓の方へ回った。
カーテンの隙間から、白い光が漏れている。
中を窺う。人の気配はない。かすかな罪悪感を覚えながら、そっと窓枠に手を掛ける。
けれどピートの心を裏切るように、あっさりとそれは開いた。
「・・・カール?」
返事はなかった。蛍光灯の光ばかりが、部屋を煌煌とあかくする。
首を差し入れると、甘いにおいがどっと鼻をついて、ピートは顔をしかめた。
ベッドサイドのテーブルで、花瓶につかった真っ赤なバラが、かぐわしい香りを放っている。
胸の中で、何かがゆっくりと頭をもたげるのを感じた。
今のうちに、花瓶なんか壊してしまおうか。
ふと頭を過ぎったそんな考えを、あっさりと否定できずに、そのことで自分の感情がますます昂ぶっていくのを、ピートは人ごとのように感じていた。
窓枠に右足をかけ、静かに中に入る。
「ピート?」
名前を呼ばれて、はっと我に返った。いつの間にか、ドアのすぐ内側にカールが立っていた。
「何やってんだ、お前」
「カールこそ何やってたんだよ!留守かと思えば窓は開いてるし、電気はついてるのに返事はないし、」
「煙草を買いに行ってただけだよ」
カールの呑気な答えに、再び頭に血がのぼった。堰を切ったように言葉が溢れ出すのを、ピートは止めることができなかった。
「窓の鍵を開けたまま外に出るなんて、どうしてそんなことをするんだよ、カール!泥棒が入って来て、この部屋の全部をめちゃくちゃにしてしまうかも知れないのに、どうしてそんなことができるんだ!傘が返ってこないと思うのに、どうして僕に貸したりなんかするんだよ!それなのにこれ見よがしに花を飾って、いったいどういうつもりなんだ?そんなことは大したことじゃないとお前は言うかも知れないけど、僕にとっては大したことなんだ!だって僕はため込んだり溢れたりなんかしたくないんだ!」
言いながら、涙が滲んでくるのを感じた。そんなことが言いたいのではなかった。
けれどどうしようもないままに、カールの煙草が灰になっていくのを、ピートは見ていた。
黒い傘を差し出す。青い瞳がかすかに揺れた気がした。
「・・・それはお前にやるって言ったろ」
「うん、だから、今度は僕がカールにあげるんだ」
カールはためらっているような顔をした。けれど結局傘を受け取って、ありがとう、と言う。
頭にのぼった熱が、すっと鎮まっていくのをピートは感じた。
開いたままの窓から、夜が流れ込む。
それを思い切り吸い込んで、こらえきれずに全て吐きだした。
雨が降るのってこういうことなのかなあ、とピートは思う。
思ったのと、カールの少し擦れた声が耳に届いたのは、ほぼ同時だった。
「じゃあ、」とカールは言った。「この花はお前にやるよ」
何も言わないピートをよそに、カールは無造作に花を花瓶から引っ張り出した。
「・・・花なんかいらないよ」
「でも、この花がここにあるのが気に入らないんだろ?だったら、やるよ。傘のお返しだ」
甘い香りが闇に溶けて広がる。また泣きたい気持ちになって、ピートはゆっくりと目を閉じた。
ああ、と思う。これが明確な答えになり得たとしたら、どんなにかいいのに。
「相変わらず変なやつだなあ」
おかしそうに笑って、カールは煙を吐き出す。
花を抱えて真っ暗な道を歩きながら、ピートは取り落とした煙草を踏みつけた。
小さな火はすぐに消えて、少しだけ満足する。
けれど、それが何の解決にもならないことくらい、ピートには充分わかっていた。
ずっと前から、カールに言いだせないままになっている明確な感情は、足で踏みつけて消してしまうには、あまりにも大きすぎるのだから。
新しい煙草に火をつけようとしたが、上手くいかなかった。花束が邪魔だ。
足元にそっと花束を下ろし、ライターの前に手をかざす。
今度はちゃんと火がついた。
そのまま、2,3メートル歩く。
それから思い直して引き返し、花束を拾った。
子どもの頃、友達にもらった虫の死骸を捨てられずに、結局母親に怒鳴られるはめになったことを、ピートは思い出していた。
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一体なんだというのか。いったい、だから、何だというのか。 ピート側から書いてみたらピートが変なやつすぎる。でも、正直こっちの方が楽しかったり。
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